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サザンオールスターズ ライブビューイング チケット情報! 茅ヶ崎! [音楽 カルチャー ニュース]

8月31日(土)9月1日(日)に行われる茅ヶ崎ライブの ライブビューイングのチケット情報をまとめました!
ライブビューイングが行われるのは以下の全国映画館!


サザンオールスターズ、始まる― 2013年・夏、熱い胸さわぎ



北は北海道、南は沖縄まで、
夏の終わりは日本がサザンで染まる!



会場リストはこちらの公式ページをご確認ください。
http://www.liveviewing.jp/sas2013/theater.html



ライブビューイングも抽選先行というのだから
サザン人気は、すごい。





では、詳細を発表します。


【日程】8月31日(土)9月1日(日)
【開演】17:30〜
【チケット代】3500円
【取り扱いサイト】ローチケ・e+(イープラス)

※8月5日の時点でチケットぴあでの取り扱い予定はございません。


<ローチケプレリクエスト>
8月15日(木) 12:00 ~ 8月18(日) 23:59
<ローチケ一般販売>
8月25日(日) 15:00 ~

一般販売はネット、またはLoppiで可能です。(電話予約無し)



<e+プレオーダー受付>
8月15日(木) 12:00 ~ 8月18(日) 23:59
<e+一般販売>
8月25日(日) 15:00 ~

一般販売はネット、またはFamiポートで可能です。(電話予約無し)


(e+には8月5日現在、まだライブビューイングの応募ページが 用意されていません…!)



各映画館でどれだけのスクリーンで上映されるかは未定とのことです。

全国120余の映画館とはいえ、仮に一つの映画館で500人が入れるとしても、ざっと 6万人限定!



公演が1日増えたぐらいの人数ですのでかなりの高倍率ということになりそうです!

(ちなみに、不思議と各映画館のHPへ言っても
「サザン」の「サ」の字も載っていません。)


応募は8月15日からですので、しばらく楽しみにして心を躍らせて待っていましょうか!

ストーンズ、北米ツアー日程発表 ハイドパークでも44年ぶり公演 [音楽 カルチャー ニュース]

昨年結成50年を迎えた英大御所ロックバンド、ザ・ローリング・ストーンズが3日、多くのファンが待ち望んでいた2013年の北米9都市ツアー日程を発表した。このほかにも今夏、およそ40年ぶりに英ロンドンのハイドパーク(Hyde Park)で野外コンサートを行うという。


英ロックバンド、ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)の結成50周年記念ドキュメンタリー『クロスファイアー・ハリケーン(­Crossfire Hurricane)』のワールドプレミアが18日、ロンドンで開催され、ミック・ジ­ャガーらメンバーがレッドカーペットに登場した。


結成50周年を迎えた英大物ロックバンド、ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)が25日、仏パリ(Paris)のライブハウスでサプライズライブを行­った。幸運な一握りの観客がストーンズを見るために支払ったチケット代は、わずか15­ユーロ(約1600円)だった。映像は、前半がリハーサルを終えたメンバー。後半が本­番に向かうメンバー


英大御所ロックバンド、ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)は12日、初めてのライブ演奏から50周年を迎えた。英ロンドン(Lo­ndon)のサマセット・ハウス(Somerset House)では、これを記念した写真展が開催されている。期間は8月27日まで


アメリカのローリングストーン誌が2003年に歴代のギタリストを格付けしたもの。
その上位20位です。

長崎 原爆 についての資料館 [音楽 カルチャー ニュース]

長崎市への原子爆弾投下は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に対して投下した原子爆弾。これは実戦で使われた二発目の核兵器である。
この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人のうち約14万9千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。
長崎市への原子爆弾投下は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に対して投下した原子爆弾。
これは実戦で使われた二発目の核兵器である。この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約14万9千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。

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長崎原爆投下時は、テニアンから小倉上空。8月6日の広島原爆投下作戦において観測機B-29「グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島へ帰還した夜、部隊の司令官であり、広島へ原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」の機長であったポール・ティベッツ大佐から、再び原爆投下作戦が行われるためにその指揮を執ること、目標は第一目標が福岡県小倉市(現:北九州市)、第二目標が長崎市であることを告げられた。
その時に指示された戦術は、1機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機無しで3機のB-29が目標都市上空に侵入するというものであった。この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いたという。
出撃機は合計6機であった。

スウィーニーの搭乗機は通常はグレート・アーティストであったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機はボックスカーとなったのである。
ボックスカーには、スウィーニーをはじめとする乗務員10名の他、レーダーモニター要員のジェイク・ビーザー中尉、原爆を担当するフレデリック・アッシュワース海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の3名が搭乗した。
先行していたエノラ・ゲイからは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる、ラッギン・ドラゴンからは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲は10分の2であるとの報告があった。

硫黄島上空を経て、午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機のグレート・アーティストとは会合できたが、誤って高度12,000mまで上昇していた写真撮影機のビッグ・スティンクとは会合できなかった。40分間経過後、スウィーニーはやむなく2機編隊で作戦を続行する事にした。

午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。
しかし爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉が目視による投下目標確認に失敗する。
その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返すものの再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗。この間およそ45分間が経過した。

この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。

その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また、陸軍芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきた事も確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。

長崎に向かう途中、グレート・アーティストの居場所について声をかけられた航法士が、インターホンのボタンを押したつもりが誤って無線の送信ボタンを押してしまったのである。
直後、「チャック! どこにいる?」という、未だ屋久島上空で旋回しているホプキンズからの返事が返ってきた。
結果的に無線封止を破ってしまったボックスカーは、なぜか急旋回してグレート・アーティストとニアミス。
危うく空中衝突をするところであった。

長崎天候観測機ラッギン・ドラゴンは「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」と報告していたが、それからかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。

ボックスカーは小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入、午前10時50分頃、ボックスカーが長崎上空に接近した際には、高度1800mから2400mの間が、80~90%の積雲で覆われていた。
補助的にAN/APQ-7“イーグル”レーダーを用い、北西方向から照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促した。
命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。ビーハンは大声で叫んだ。

「街が見える!」

「Tally ho! 雲の切れ間に第2目標発見!」

スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えてビーハンに操縦を渡した。
工業地帯を臨機目標として、高度9,000mからMk-3核爆弾ファットマンを手動投下した。ファットマンは放物線を描きながら落下、約1分後の午前11時2分、長崎市街中心部から約3kmもそれた別荘のテニスコート上空、高度503mプラスマイナス10mで炸裂した。

ボックスカーは爆弾を投下後、衝撃波を避けるため北東に向けて155度の旋回と急降下を行った。爆弾投下後から爆発までの間には後方の計測機グレートアーティストから爆発の圧力、気温等を計測する3個のラジオゾンデが落下傘をつけて投下された。これらのラジオゾンデは、原爆の爆発後、長崎市の東側に流れ、正午頃に戸石村(爆心地から11.6km)、田結村(12.5km)、江の浦村(13.3km)に落下した。

長崎原爆はプルトニウム239を使用する原子爆弾である。
このプルトニウム原爆はインプロージョン方式で起爆する。
長崎原爆「ファットマン」はTNT火薬換算で22,000t(22kt)相当の規模にのぼる。この規模は、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」(TNT火薬15,000t相当)の1.5倍の威力であった。

長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減された。
周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島に落とされた原爆「リトルボーイ」の威力を超えたとも言われている。

仮に最初の標的であった小倉市に投下されていた場合、平坦な土地が広がり、本州と九州の接点に位置するために、関門海峡が丸ごと被爆し、小倉市および隣接する戸畑市、若松市、八幡市、門司市、即ち現在の北九州市一帯と下関市まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたのではないかと推測される。

長崎原爆の被害は浦上地区の中央で爆発し、この地区を壊滅させた。
なお長崎の中心地は爆心地から3kmと離れていること、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微であった。
浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨な物であった。浦上教会(浦上天主堂)では原爆投下時にゆるしの秘跡を行っていたが、司祭の西田三郎・玉屋房吉を初め、数十名の信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになり全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員が犠牲となった。

長崎市内には捕虜を収容する施設もあり、連合軍兵士(主に英軍・蘭軍兵士)の死傷者も大勢出たと云われている。
特異例として広島で被爆後親戚を頼って長崎へ疎開していた人物が再び長崎で被爆・または出張等で広島を訪れていた人物が被爆し、実家のある長崎で再び被爆したと云う事例(二重被爆)も確認されている。
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